この記事で分かること
- 宇佐市平和資料館とは?
- 宇佐市平和資料館へのアクセス
- 宇佐海軍航空隊について
- 宇佐市平和資料館の展示品
- 宇佐市平和資料館の概要
宇佐市平和資料館とは?
1937年(昭和12年)に中国との戦いが始まり、米国との開戦も必至の情勢であった1939年(昭和14年)10月1日に、宇佐海軍航空隊(宇佐空)は艦上爆撃機、艦上攻撃機の搭乗員養成のための実戦訓練を行う航空隊として開隊しました。
卒業後は実践部隊へ送り出され、真珠湾攻撃などにも参加し、1945年(昭和20年)2月には、神風特別攻撃隊の中継基地にもなり、多くの航空機が宇佐に集まりました。また、宇佐空でも神風特別攻撃隊が編成され、154名もの搭乗員が特攻出撃して戦死しました。このような状況下で、宇佐空は米軍の艦載機や爆撃機の空襲を受け、多くの命が失われました。
宇佐市平和資料館では、宇佐海軍航空隊の歴史や宇佐への空襲、宇佐から出撃した特別攻撃隊、市内の戦争遺跡について解説しています。零式艦上戦闘機21型(原寸大模型)や、映画「永遠の0」の撮影に使用されたコクピットなど、当時の戦闘機の大きさなどを肌で感じられるものが展示されています。
宇佐市平和資料館へのアクセス
JRでのアクセス
日豊本線柳ケ浦駅から車で約15分。レンタサイクルで約30分。
車でのアクセス
宇佐別府道路宇佐ICより車で約10分
宇佐海軍航空隊について
宇佐海軍航空隊とは
宇佐海軍航空隊は1939年(昭和14年)10月1日、艦上攻撃機と艦上爆撃機の練習航空隊としてつくられました。柳ヶ浦地区を中心とした基地は東西1.2km、南北1.3kmで、約184haほどの広さがあり、800名の隊員が所属していました。隊員たちは航空母艦での勤務に備え、宇佐で訓練を重ねました。当時、艦上爆撃機の爆撃訓練に使われたコンクリート製の的が現在も宇佐市宮熊の沖に残っています。
戦況が悪化してくると、宇佐海軍航空隊は特別攻撃隊の基地となりました。1945年(昭和20年)には、米軍の空襲をうけるようになり、同年4月21日の空襲では航空隊関係者だけでも320人が犠牲になっています。また、宇佐からは102機が特攻出撃し、そのうちの81機、154人が戦死しています。
1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎えると、約6,000名の隊員を抱えた宇佐海軍航空隊もその幕を閉じました。その後、幅80m、長さ1,800mの滑走路をはじめとした航空隊の設備の多くは取り除かれ、田畑に戻されましたが、掩体壕や滑走路跡、落下傘整備所などの遺構から宇佐海軍航空隊の姿をうかがい知ることができます。
宇佐海軍航空隊年表
年月日 | 出来事 |
---|---|
1939年(昭和14年) 10月1日 | 艦上爆撃機・艦上攻撃機の練習航空隊として宇佐郡柳ヶ浦村(現大分県宇佐市)に開隊する。 |
1941年(昭和14年) 10月7日 | ハワイ真珠湾攻撃に参加する航空母艦「翔鶴」・「瑞鶴」の艦上攻撃隊が宇佐で訓練を開始する。 |
1941年(昭和14年) 12月8日 | 太平洋戦争が始まる。 |
1941年(昭和14年) 12月28日 | 真珠湾攻撃に参加した飛行隊が宇佐に帰隊する。 |
1943年(昭和18年) 7月9日 | 勤労奉仕隊により掩体壕が造られ始める。 |
1945年(昭和20年) 2月11日 | 人間爆弾「桜花」を吊り下げて出撃する「一式陸上攻撃機」約30機(第721海軍航空隊:通称人雷部隊)が宮崎基地から宇佐空へ移動する。 |
1945年(昭和20年) 2月16日 | 練習連合航空隊司令長官から宇佐海軍航空隊に110名の特攻訓練が命令される。 |
1945年(昭和20年) 3月18日 | 米軍艦載機による宇佐への最初の空襲を受け、14名の死者が出る。 |
1945年(昭和20年) 4月6日 | 第1八幡護皇隊艦爆隊・艦攻隊が沖縄方面へ特攻出撃する。(以後、5月11日までの特攻で81機154名が戦死する。) |
1945年(昭和20年) 4月21日 | 米軍機「B-29」の空襲で約320名の航空隊員が死亡 |
1945年(昭和20年) 5月5日 | 宇佐海軍航空隊が解隊し、西海海軍航空隊宇佐基地となる。 |
1945年(昭和20年) 8月15日 | 終戦 |
宇佐海軍航空隊の規模と訓練内容
場所 | 大分県宇佐郡柳ヶ浦村(現大分県宇佐市) |
開隊 | 1939年(昭和14年)10月1日 |
解隊 | 1945年(昭和20年)5月5日(以後は、終戦まで西海海軍航空隊宇佐基地) |
隊員数 | 開隊時:約800名 終戦時:約6,100名 |
面積 | 東西約1,200m、南北1,300m(開隊時) |
滑走路 | 開隊時:幅30m×長さ1,150m 終戦時:幅80m×長さ1,800m |
訓練内容 | 艦上爆撃機・艦上攻撃機の実戦機を使った操縦と偵察の教育。 艦上機とは、航空母艦から発着できる飛行機で、特別な訓練が必要でした。 宇佐空で使用された「99式艦上爆撃機」は2人乗りで、急降下爆撃を行いました。 「97式艦上攻撃機」は3人乗りで、魚雷や爆弾を水平飛行で投下して攻撃を行いました。 卒業後は実践部隊へ配属され、真珠湾攻撃などの作戦に参加しました。 |
「97式」や「99式」とは、日本の近代で一時期使われた「皇紀」という年号を表しています。
初代天皇とされる神武天皇が即位した年を紀元前660年とすると、1940年(昭和15年)が皇紀2600年にあたります。この年に採用された軍用機は「零式」と名付けられました。同様に、皇紀2597年の採用機が「97式」、同2599年が「99式」と呼ばれました。
宇佐市平和資料館の展示品
零式艦上戦闘機21型(原寸大模型)
展示の「零式艦上戦闘機」は、映画「永遠の0」で主人公が特攻に出撃する際に使用した「零式艦上戦闘機21型」の原寸大模型です。実物の戦闘機「疾風(はやて)」のタイヤが使用されており、細部にわたり精巧に再現されています。
また、尾翼には神雷部隊を示す「721」の番号が記されています。全長9.05m、幅12m、高さ3.51m。
「零式艦上戦闘機」は戦闘機としては前例のない3,000kmを超える航続距離や時速500km以上の高速と軽快な運動性で、真珠湾攻撃などの海軍の作戦を支えました。
宇佐海軍航空隊神風特別攻撃隊「八幡護王隊」
宇佐海軍航空隊では1945年(昭和20年)2月20日から特別攻撃隊の訓練が始まり、神風特別攻撃隊「八幡護王隊」などが編成され、沖縄方面への特攻作戦に次々と出撃していきました。
この特攻で延べ193名が出撃し、154名が亡くなりました。
「八幡」は宇佐八幡宮、「護皇」は和気清麻呂にちなんで名付けられました。
人間爆弾「桜花」(実物大模型)
「桜花」は1人乗りの特攻専用の兵器で、「一式陸上攻撃機」に吊り下げられて運ばれました。切り離された後は、3本のロケットに順次点火して加速し、敵艦に突入しました。
神雷部隊
第721海軍航空隊は神雷部隊と呼ばれ、人間爆弾「桜花」を攻撃兵器とした最初の航空特攻専門部隊です。「桜花」を吊り下げる「一式陸上攻撃機」と、それを護衛する「零式艦上戦闘機」によって編成されていました。
1945年(昭和20年)3月18日、最初の出撃命令を受けた神雷部隊は、宇佐海軍航空隊から出撃する直前に、米軍艦載機の空襲で「桜花」を搭載した「一式陸上攻撃機」の大半が被害を受け、この日の攻撃は中止になりました。
その後、宇佐基地では本土決戦に備えて「桜花」が配備され、終戦時には51機の機体が残されていました。
神雷部隊全体で、829名の搭乗員が戦死しました。
九七式艦上攻撃機尾翼(実物大模型)
宇佐海軍航空隊の飛行機には、所属が分かるように「ウサ」と書かれていました。
映画「茜の空」撮影用に制作されましたが、監督が亡くなったため撮影が中止となりました。その際に譲っていただいた尾翼です。
宇佐市平和資料館の概要
休館日 | 火曜日(祝日の場合はその翌日) 年末年始(12/29〜1/3) |
開館時間 | 9:00〜17:00(入館は16:30まで) |
入場料 | 無料 |
住所 | 大分県宇佐市大字閤440番地の5 |
宇佐市平和資料館のwebサイト | https://www.city.usa.oita.jp/sougo/soshiki/18/shakaikyoiku/3/2/2155.html |
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