この記事で分かること
- 岡山空襲展示室とは?
- 岡山空襲展示室へのアクセス
- 岡山空襲とは?
- 岡山空襲展示室の展示品
- 岡山空襲展示室の概要
岡山空襲展示室とは?
岡山空襲展示室は、岡山空襲に関する展示を通じて、たくさんの方に平和への想いを新たにしていただき、戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に伝えていきます。また、貴重な資料の散逸や損耗を防止するために、関連資料の収集や聴き取り調査を行っています。
岡山空襲展示室へのアクセス
JR岡山駅東西連絡通路直結
リットシティビル南棟4・5階
岡山空襲とは?
1945年(昭和20)6月29日の午前2時43分、テニアンから飛び立ったB-29の最初の一機が岡山市上空に現れました。空襲は午前4時7分まで1時間24分もの間続き、138機のB-29が約890トンの焼夷弾を投下しました。
この空襲により少なくとも1,737人の方が犠牲となり、当時の市街地の63%が消失しました。
※死者数は「岡山市町別戦災調査資料綴」の中のメモ(1949年作成 岡山市立中央図書館蔵)を根拠としていますが、正確な犠牲者数は不明であり2,000人を超えるという説もあります。
岡山空襲展示室の展示品
M47焼夷弾
鋼鉄のケースに油脂(ガソリンにナパームという増粘剤等を混ぜてゼリー状にしたもの)約18kgが詰められた大型の焼夷弾で、着弾すると起爆する瞬発弾頭信管がつけられていました。
大型のため、貫徹力も爆風も大きく、広範囲に油脂が飛び散りました。空襲の際には先導グループに積み込み、目標地点に大火災を起こさせることによって地上の消化を困難にし、また後続機の目印にしました。
M74焼夷弾
油脂約1.3kig、マグネシウム、猛毒の黄燐などが詰められており、38本束ねたE-48集束焼夷弾として投下されました。着地すると尾部から油脂と黄燐が飛び出しました。
それまでの日本本土空襲でよく使用されていたM69に比べて、早いスピードで落下すること(金属の尾羽が尾部から飛び出して弾道を安定させるため)や猛毒の黄燐が含まれるために、より殺傷能力を高めた焼夷弾であったと言えます。
※黄燐は、空気中で自然発火する猛毒の物質。皮膚に付着すると化学火傷を起こす。
E-48集束焼夷弾
M74焼夷弾を19本ずつ2弾、38本束ねたものがE-48集束焼夷弾です。
高度3,300〜4,000mあたりから投下されたE-48は高度1,500m付近でバラバラにほどけるよう設計されており、38本のM74焼夷弾をばら撒きました。「線香花火のように落ちてきた」という体験談があります。
罹災証明書
空襲で被害にあった人に発行されました。岡山では、主な行政機関が焼けたため、粗末な紙に印刷されたものが多く、発行者も岡山市長や岡山東、西警察署長とさまざまです。この証明書で配給を受けたり、数日の間交通機関が無料となるなどの支援を受けることができました。
バケツ、防火水槽、火たたき、投下管制下の室内
防空壕とともに、防火水槽やバケツ、消化用の砂、火たたき(水で消火できない焼夷弾を叩き消すための道具。縄や竹などで作られました。)があちこちに設置されました。また、灯火管制が行われ、電灯にはカバーがかけられ、窓は黒い布で覆われました。白い壁の建物などは迷彩塗装も推奨されたようです。
投下管制用紙製カバー、防空電球
明かりが外へ漏れることのないよう、電球にはカバーが取り付けられました。真下だけを照らす「防空電球」という商品もありました。しかし、ほとんどの人は黒い布などで電球を覆っていたようです。
防空頭巾、ガスマスク、鉄かぶと
空襲が激しくなると、外出する際には、基本的に防空頭巾を持って出かけるよう指導されました。家庭で手作りされ、地味な色で綿素材がいいとされ、氏名、住所、血液型を書いた布を縫い付けていました。ガスマスクや鉄かぶとなどは不足しており、岡山ではほとんどの人が入手していませんでした。
岡山空襲展示室の概要
休館日 | 月曜日(月曜日が国民の祝日にあたる場合は翌日)ほか |
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開館時間 | 10時から18時(入室しめきりは17時30分まで) |
入館料 | 無料 |
住所 | 岡山市北区駅元町15-1 リットシティビル南棟4・5階 |
webサイト | https://www.city.okayama.jp/okayama-city-museum/0000022330.html |
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