この記事で分かること
- 長崎原爆資料館とは?
- 長崎原爆資料館へのアクセス
- 長崎原爆資料館の展示品
- 長崎原爆資料館の概要
長崎原爆資料館とは?
1945年8月9日 午前11時2分。
広島原爆投下から3日後、長崎市内の浦上地域上空で原子爆弾が炸裂し、付近は一瞬のうちに廃墟と化し約15万人の尊い命が奪われました。
この資料館では被爆の惨状をはじめ原爆が投下されるに至った経過や核兵器開発の歴史などを紹介し、被爆から現在までの長崎の復興の様子をストーリー性のある展示を交えながら、核兵器のない世界の実現に向けて平和を発信しています。
被爆直後と現在の長崎の風景写真を比較すると、目覚ましい勢いで復興した長崎の街と長崎市民の逞しさがひしひしと伝わってきます。
「原爆、戦争なんて遠い昔のこと」とはいえない現在の世界情勢。各展示物に正面から向き合うと同時に“悲惨な歴史”を受け止め、真の平和について考える意義深い時間を過ごせるでしょう。
原爆・平和関係の図書閲覧ができるほか、ビデオコーナーを設置した図書室も併設しています。
館内にある喫茶店(ピースカフェ)は、ドリンクや軽食・スイーツなど充実したメニューを提供しているので、見学後のリラックスタイムを過ごすことができます。
長崎原爆資料館へのアクセス
JR長崎駅からのアクセス
路面電車でのアクセス
「赤迫(あかさこ)」行で「原爆資料館」電停下車、徒歩約5分
路線バスでのアクセス
滑石(なめし)・時津(とぎつ)・長与(ながよ)・女の都(めのと)方面行で「浜口町」バス停下車、徒歩約5分
長崎空港からのアクセス
長崎空港リムジンバスでのアクセス
長崎駅前(浦上・住吉方面)行で「平和公園」バス停下車、徒歩約5分
長崎空港リムジンバス(長崎県営バス) 約40分
長崎空港線エアポートライナーでのアクセス
長崎駅前(住吉・道の尾経由便)行で「平和公園」バス停下車、徒歩約6分
長崎空港線エアポートライナー(長崎バス) 約1時間
高速道路からのアクセス
車でのアクセス
長崎自動車道「長崎多良見IC」から長崎バイパスへ入り、「川平IC(平和公園・昭和町方面)」出口より、市内中心部方面へ約5分
長崎原爆資料館の展示品
A 1945年08月09日
1571年、ポルトガル船の来航により、歴史の幕をあけた『長崎』。江戸時代の鎖国下、オランダ、中国を通じて海外に開かれた唯一の窓口となった『長崎』。海外の最新知識を求めて多くの人材が訪れた『長崎』。幕末の開港により、洋館が建ちならび、居留地貿易で賑わった『長崎』。明治以降、近代化とともに貿易の街から造船の街へと変わった『長崎』。日中戦争、第二次世界大戦に突入、戦時色を強めた『長崎』。三方を山に囲まれ、開港以来歴史を刻んできた坂の町『長崎』に、1945年(昭和20年)8月9日、夏の一日が訪れた。
原爆投下前の長崎の街や風景、市民の生活。それが一瞬にして破壊されたことを語る11時2分を指したままの時計を展示しています。
B 原爆による被害
B-1 原子野と化した長崎の街
一発の原子爆弾で一面原子野と化した長崎の街。
実際に被爆した大型の被災資料の展示や、被爆後の長崎の街を大型のスクリーンに映しています。
B-2 浦上天主堂の惨状
16世紀後半より、キリシタン布教の地として歴史を持つ浦上地区。1587年のキリシタン禁令にはじまる長い迫害の歴 史に耐え、1873年(明治6年)禁制の解かれる日を迎える。信仰の灯を守りとおした人々は、レンガを一枚一枚積み上げ、20年の歳月をかけ、浦上天主堂 を1914年(大正3年)に、その後双塔を1925年(大正14年)に完成させた。双塔の高さは26メートル、東洋一の壮大さを誇っていた天主堂であった が、原子爆弾により、鐘楼ドームは吹き飛ばされ、わずかに側壁を残しただけで、無惨に崩れ落ちた。
(エドワーズ・ロジャース氏撮影)
被爆した浦上天主堂の側壁(再現造型)をはじめ、浦上天主堂で被爆した天使像やロザリオなどの被災資料を展示しています。
B-3 長崎原爆投下までの経過
長崎に原爆が投下されるまでを年表と写真資料等により展示しています。また、長崎型原爆:ファットマンの模型も展示しています。
広島に原爆が落とされた3日後の1945年(昭和20年)8月9日、長崎に第2の原爆が落とされた。
原爆は8月6日にテニアン島で組み立てられ、8日、アメリカ陸軍在グアム第20航空軍司令部野戦命令17号において、小倉を第1目標、長崎を第2目標として翌9日に投下することが指令された。この日、ソ連が日本に宣戦布告した。
9日、B29ボックス・カーは小倉上空に達したが、前日の八幡爆撃による煙やもやのため投下を断念、第2目標の長崎に向い原爆を投下、11時2分にさく裂した。
B-4 被爆した長崎の街
長崎市街の地形模型を展示し、天井からのモニターによって、模型上に火球、熱線、爆風、火災、放射線の面的な広がりをわかりやすく表示しています。
また、模型の周りにある5台のモニターでは、被害の状況を、写真や映像で説明しています。
B-5 熱線による被害
『熱線の検証』『熱線による物的被害』『火災による被害』『熱線による人的被害』を被災資料や写真などで説明しています。
熱線の検証
火球から放出された大量の熱線は、爆発から3秒ほどの短い時間に、異常な高熱で地上を包んだ。地表面の温度は爆心地で3,000度から4,000度、1キロメートル離れたところでおよそ1,800度、1.5キロメートル付近で600度以上に達したものと推定される。これが大規模な火災を引き起こした。熱線が届いた距離は浦上地区の地形と関係するので一様ではない。しかし、その影響は遠くまでおよんで、爆心地からおよそ4キロメートル離れたところでも、屋外にいた人は熱傷を負うほどだった。
熱線による物的被害
爆心地の近くでは、熱線のすさまじいエネルギーによって、燃えるものすべてが火をふいた。溶けたガラス、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった石などが、その激しさを物語っている。爆心地から遠ざかるにつれて熱線は弱まるが、それでも2キロメートル以内では衣類、電柱、樹木などの表面が燃えたり焦げたりした。
火災による被害
熱線と爆風による被害は、火災によってさらに増大した。爆風の被害が家屋の半壊程度ですんだところも、後で起きた火災のために結局全焼した。全焼壊家屋12,900戸、半焼壊家屋は、5,509戸にのぼっている。火災は、犠牲者の数も増大させた。倒れた家の下敷きになっても、火さえ来なかったら、外傷だけで助かったはずの人が、きわめて多い。
熱線による人的被害
熱線のわずか数秒間の高熱は、人々の皮膚にあびせられた。熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられない被害をもたらした。爆心地からの距離により負傷の程度は異なるが、重傷になると表皮は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下の組織や骨までが露出した。1.2キロメートル以内では熱線だけでも致命的であり、爆心地付近では、あまりの高熱に一瞬のうちに身体が炭化し、内臓の水分さえ蒸発したと考えられている。
B-6 爆風による被害
爆心地より1キロメートル以内では、一般の家屋は原形をとどめないまでに破壊された。鉄筋コンクリートの建物などがところどころに残ったが、いずれも建物とは名ばかりの無惨な状態だった。つぶれたり、大きく変形したありさまが、爆心の方向を指し示している。このようなすさまじい爆風に人々は吹き飛ばされ、散弾のような無数のガラスや木片を全身に浴びた。
B-7 放射線による被害
原爆の放射線は人体を刺し貫き、そのときいろいろな細胞を破壊する。損傷の程度は被爆した量によって異なるが、爆心地から1キロメートル以内で被爆した人のうち、無傷であっても、その大多数の人が死亡している。放射線の破壊力はそれほど強烈だった。人体におよぼす害は、爆発のときだけでは終わらない。放射線は身体の奥深くを傷つけ、時がたつにつれて様々な症状を呼び起こす。あの夏に始まった放射線障害の苦しみは、いまだに消えることがない。
B-8 救援・救護活動
原爆は、定められていた医療救護体制にも壊滅的な打撃を与えた。生き残った医師や看護婦らによって、救護活動が始められたが、器材や薬品が不足し、被爆者に対して応急措置さえ十分に施せる状態ではなかった。こうした混乱の中、救援列車が走った。燃えさかる炎の中を爆心地を目指して進み、途中で停車したが、多数の負傷者を沿線の病院へ運んだ。夕方近くには近郊の海軍病院などの救護隊が、夜になって県下の町村ごとの警防団を主力に組織された救援隊がそれぞれ長崎に入ってきた。
B-9 永井隆博士
永井隆は、助教授をつとめる長崎医科大学附属医院で被爆した。自らも重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ。やがて、彼の思いは医師としての役割から、長崎の町の文化の復興、そして平和の願いへと広がっていく。被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化するが、病床についてからも、執筆活動を通してその実践を貫いた。被爆から6年の命だったが永井隆の足跡からは、平和への切実な祈りが聞こえてくる。
B-10 被爆者の訴え
生き残った被爆者は、戦争・原爆の恐ろしさを、そして平和の尊さを訴え続けています。
このコーナーでは被爆者の方々の証言ビデオを見ることができます。
C 核兵器のない世界
C-1 日中戦争と太平洋戦争
広島と長崎に原爆が投下されるまでには、長い戦争の歴史がありました。1931年の満州事変勃発から日中戦争へ、さらに、太平洋戦争の勃発から1945年の敗戦へ、15年ものあいだ続いた戦争は、朝鮮や中国をはじめとしたアジア諸国のたくさんの人たちを巻き込むことになりました。
C-2 原爆投下への道
第2次世界大戦が始まる前の年、1938年。巨大な原子力エネルギーを獲得する方法が、ドイツで発見されました。しかし、不幸なことに、この強大なエネルギーは人を大量に殺すための兵器、すなわち原爆として実用化されました。ドイツの原爆開発の動きを知ったアメリカは、莫大な資金と多くの科学者を使って原爆開発を進めました。ドイツの敗色が濃くなる中で、原爆投下の目標は日本に定められ、1945年8月6日広島に、8月9日には長崎に原爆が投下されました。
C-3 核兵器の時代
第2次世界大戦後、多くの科学者は、広島・長崎の反省から、核兵器は人類滅亡をもたらすと警告しました。しかし、世界はアメリカとソ連がにらみあう冷戦の時代に入り、原子爆弾のほかにも水素爆弾、中性子爆弾といった核兵器の開発競争が激しくなりました。より速く、より正確に目標を破壊する技術も進み、核兵器を持つ国々も増えました。「核兵器を持っていれば、攻撃されることはない。核兵器こそ戦争を防ぐ手段である。」という危険な考えのもとで、開発競争はとまることがありませんでした。
一方、核兵器による不安が世界中に広がるなかで、これ以上核兵器を持つ国を増やさないことなどを目的として、核不拡散条約(NPT)を制定したほか、特定の地域で核保有国が核攻撃をしないことを前提に、核兵器の開発、製造、取得などを禁止する非核兵器地帯が南半球を中心に創設されました。
それと同時に、核兵器廃絶を願う人々の声も高まり、平和運動の大きなうねりになっていきました。
C-4 現代の核兵器
はじめて原爆がつくられてから半世紀以上が過ぎた今なお、地球上には全ての人類を滅ぼしてもまだ余りある核兵器が存在しています。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国のほかにも、核兵器の保有が疑われている国は少なくありません。
現代の核兵器は、広島・長崎に投下された原爆にくらべ、破壊力も命中精度も格段に進み、人類は今もその恐怖のもとにさらされており、一日も早い核兵器の廃絶が、わたしたちの大きな課題となっています。
C-5 核兵器開発・実験の被害者達
長崎に原爆が投下されてから9年後の1954年3月、アメリカは南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ないました。この実験によって被害を受け、半年後に亡くなった日本のマグロ漁船第五福竜丸(ふくりゅうまる)の乗組員、久保山愛吉(くぼやまあいきち)さんは、その死の床で「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい。」という言葉を残しました。久保山さんの命をかけた願いにもかかわらず、その後も核兵器の生産は拡大し、人の命にかかわる事故がおきました。
核兵器の実験地域は、人ばかりでなく自然環境も、放射能で汚染された。核兵器開発競争のもと、犠牲となった人々が、今もその後遺症に苦しんでいます。
C-6 長崎から世界へ
戦後、長崎市は、原爆被爆都市の使命として、核兵器の脅威を世界に訴え、恒久平和の実現に向けて努力してきました。毎年8月9日には、原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で市長が長崎平和宣言を読み上げている。核兵器廃絶への努力をあきらめないという決意の表明であり、世界の人々へ向けた被爆地からのメッセージです。
長崎と広島は協力して、核兵器廃絶のための都市の連携を世界に呼びかけています。海外で開催する「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」では、被爆の実相を示す写真や資料を展示しています。また、世界の都市とともに「平和首長会議」を、非核都市宣言を実施した日本国内の自治体で「日本非核宣言自治体協議会」を組織して、「核兵器のない世界」の実現に向けた取り組みを展開しています。
世界から核兵器がなくなる日まで、長崎市はこれからも努力を続けていきます。
D ビデオルーム
資料館には、ビデオルームが2室とQ&Aコーナーがあります。
ビデオルーム1
「8月9日長崎」と「ながさき原爆の記録」を交互に上映しています。
「8月9日長崎」(英語字幕付10分)
若い世代へ被爆体験を継承するため、被爆35周年事業で長崎市が長崎県と共同で製作したアニメーション。英文字幕スーパー入り。ナレーションは渡辺美佐子。
「ながさき原爆の記録」(日本語のみ20分)
米国戦略爆撃調査団が撮影した原爆の被災記録を編集した映画。
ビデオルーム2
「核兵器禁止条約誕生までの流れと核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の活動を紹介する動画」を上映しています。
Q&Aコーナー
全部で50の原爆に関するクイズが用意してあります。
長崎原爆資料館の概要
休館日 | 12月29日~12月31日 (※図書室・ホールは12月29日~1月3日) |
開館時間 | 4月、9月~翌3月:8:30~17:30 (入館は17:00まで) 5月~8月:8:30~18:30 (入館は18:00まで) 8月7日~9日:8:30~20:00 (入館は19:30まで) ※図書室・原爆資料館ホールは上記と時間帯が異なりますので、ご注意ください。 |
入館料 | 一般 200円 小中学生・高校生 100円 |
住所 | 長崎県長崎市平野町7番8号 |
長崎原爆資料館のwebサイト | https://nabmuseum.jp/genbaku/ |
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