この記事で分かること
- 鹿屋航空基地史料館とは?
- 鹿屋航空基地史料館へのアクセス
- 鹿屋航空基地史料館の展示品
- 鹿屋は映画「永遠の0」のロケ地
- 鹿屋航空基地史料館の概要
鹿屋航空基地史料館とは?
鹿屋航空基地史料館は、海軍航空の歴史資料館。
館内には、旧海軍創設期から先の大戦、現在の海上自衛隊の活動に至るまでの貴重な資料が展示されている。
鹿屋航空基地史料館へのアクセス
鹿児島中央駅からのアクセス
鹿児島中央駅ー航空隊前バス停(約1時間54分):直通バス
鹿屋航空基地史料館最寄りのバス停は「航空隊前」
鹿屋航空基地史料館の展示品
屋外展示
二式大型飛行艇
飛行艇としては当時世界最高の性能を誇った名機であり、2004(平成16)年4月に東京お台場の船の科学館から寄贈される。優れた航続性能を生かし、鹿屋から最初の特攻機(銀河24機)を片道2,900キロのウルシー座礁(グアムの南西方面)まで誘導した。
現存している二式大型飛行艇が見れるのは鹿屋航空基地史料館のみ。世界に1機のみの展示となっている。
戦艦比叡の主錨
HSS-2A(ちどり)対潜哨戒機
海上自衛隊初の対潜ヘリコプターHSS-1の後継機として導入された米国シコルスキー社(当時)のHSS-2の性能向上(エンジン出力向上、レーダー装備)型であり、潜水艦の捜索と攻撃の両機能を持ち、28機導入された。
また、ソノブイ、磁気探知、電波逆探等の装備により、対潜能力を向上したHSS-2B型が84機導入された。
2AIは1960(昭和35年)、2Bが1989年(昭和64年)まで使用された。
BELL-47(練習機)
米国ベル社で1945(昭和20年)に初飛行、世界で初めて実用化されたヘリコプターである。
海上自衛隊の前進であつ海上警備隊発足当初の1952(昭和27年)にBELL-474機輸入、以後、改良を加えた川崎重工製のBELL-47D-1を1機、G-2を2機、G-2Aを8機、計15機が練習機として導入され、1994年(平成6年)まで使用された。
エンジンはレシプロエンジンである。うち1機は、砕氷艦「ふじ」、「しらせ」に搭載されていた。
KV-107Ⅱ(しらさぎ)掃海機
米国バートル社(当時)が、タンデムロータ形態を採り入れて開発した着水可能な輸送用ヘリコプターである。
陸海空3自衛隊で使用された。海上自衛隊では、1963年(昭和38年)、3自衛隊の中で最初に2機が掃海用として導入され、合計9機が1988年(昭和63年)まで使用された。
掃海具は、機体後部扉を開けて、海中に降ろし、低空飛行しながら曳航することにより、海中の機雷を除去する。
陸上自衛隊では、 物資 人員輸送用に使用され、 航空自衛隊では、 救難捜索用として使用された。
T-34Aメンター(連絡機)
1945年(昭和20年)に原型機が初飛行したレシプロ単発軽飛行機である。
1953年(昭和28年)自衛隊の前身である保安隊、 警備隊に10機ずつ米軍から貸与され、海上自衛隊発足時には、1機が連絡機として配備された。
以後、1964年(昭和39年)から1969年(昭和44年)にかけて、 航空自衛隊から11機 移管され、訓練、 連絡機として部隊で運用し、 1980年(昭和55年)まで使用された。
SNB-4(練習機)
1957年(昭和32年)にアメリカ海軍から35機が供与されたJBR-4。 本機はビーチクラフト18Sシリーズの軍用型で、 海上自衛隊のほか海上保安庁、 航空大学、新聞社などで同系機が多数使用されていた。
海上自衛隊ではSNBと呼ばれ、 戦後32年から供与され、 1966年まで使用された。
S2F-1(艦載用対潜哨戒機)
米海軍で航空母艦から行動できる対潜哨戒攻撃用機として設計・製作されたもので、 P2V-7より小型化された航空機である。
レーダー、 磁気探知、 電波逆採、 ソノブイ、 探照灯のほか、ロケット弾を両翼に3発ずつ装備する等、 対潜哨戒 攻撃のために 必要な装備をほとんど装備していた。
通称トラッカーと呼ばれ、 1957年(昭和32年)から米海軍の供与(60機)を受け、 1982年(昭和57年)まで使用された。
R4D-6(まなづる)多用機
世界で最も寿命が長いので有名な、米民間輸送の傑作機 DC-3/C-47で、1958年(昭和33年)末から1958年(昭和34年)に海軍型R4D-6を4機導入して、 物資や人員の輸送に使用していたが、 内1機はECM訓練用のR4D-6Qとなった。
P2V-7(おおわし)対潜哨戒機
米国ロッキード社が開発した戦後の代表的な対潜哨戒機であり、レシプロエンジン2基とブースター用にジェットエンジン2基を搭載している。
米軍から1955年(昭和30年)から16機の供与を受け、日米政府間協定により1958年(昭和33年)から国産化、1965年(昭和40年)までに48機の国産機が導入され、合計64機が 1981年(昭和56年)まで使用された。
通称ネプチューン。 対潜機器として、レーダー、ソノブイ、 磁気探知、 電波逆探装置等の電子機器を 搭載し、夜間に海上を照らす探照灯も右翼端に装備している。 対潜魚雷、 機雷、対潜爆弾、ロケット弾等も搭載できる。
KM-2(練習機)
初等練習機として使用していたSNJ練習機の老朽化、訓練空域の高高度化、遠距離化などに伴った性能不足が明確になり、当時、単発軽飛行機として高い飛行性能を持っていたKM-2が採用された。
1962年(昭和37年)7月16日に1号機が初飛行し、 その後、 鹿屋航空基地第201教育航空隊 (現在、下関市小月航空基地に移転) に配属された。 生産機数62機、1996年(平成8年)まで使用された。
B-65 クインエア(うみばと)練習機
海上自衛隊が1962年(昭和37年)からビーチSNB双発練習機の後継機として採用し、計器飛行訓練用に導入を開始したのがB-65クインエアである。
後に海上自衛隊の乗員訓練体系が変わり、 全機航空自衛隊に移管された。
P-2J(対潜哨戒機)
P2V-7の後継機の研究が1961年(昭和36年)頃から海上自衛隊と川崎重工との間でなされた結果、P2V-7の改造型として、我が国独自のP2-Jが誕生した。量産1号機が1969年(昭和44年)に納入され、以後1983年(昭和58年)の最終号機まで、合計83機生産された。
P2V-7を改造したP-2J試作機1号機が、1966年(昭和41年)7月に初飛行して以来、1994年(平成6年)の退役まで28年間、大きな事故等無く1機も失われなかった航空機である。
主な改造点は、メインエンジンをレシプロからターボプロップに、ブースター用ジェットエンジンを国内開発のJ3に換装、 プロペラを4枚から3枚に変更、操縦席後部を1.3メートル延長、主脚の車輪を2本とした。搭載機器も近代化し、レーダーも高性能小型化したものに換装し、機体下部のレーダードームもかなり小型化されている。
US-1A(おおとり)救難飛行艇
戦時中に二式大型飛行艇を開発した川西航空機の後身、新明和工業が1960年代に開発した世界唯一の大型対潜飛行艇PS-1をベースに、外洋でも救難活動が可能な水陸両用機として開発された飛行艇である。
機内には海難救助のための投下用キット、救命いかだ、船外エンジン付ゴムボートなどを搭載し、機外には陸上の空港に着陸できるように水陸両用の主脚を設けた。救難ヘリコプターが対応できない洋上はるか遠方の船舶の救急患者、小笠原諸島の父島等の救急患者等の空輸などを実施した。
2017年(平成29年) まで使用され、現在では性能向上型であるUS-2救難飛行艇が使用されている。
P-2J (対潜哨戒機)4783号
P2V-7の後継機の研究が1961年(昭和36年)頃から海上自衛隊と川崎重工との間でなされた 結果、P2V-7の改造型として、我が国独自のP2-Jが誕生した。
量産1号機が1969年(昭和44年)に納入され、以後1983年(昭和58年)の最終号機まで、合計83 生産された。
P2V-7を改造したP-2J試作1号機が、1966年(昭和41年)7月に初飛行して以来、1994年(平成6年)の退役まで28年間、 大きな事故等無く1機も失われなかった航空機である。 この4783号機は生産最終号機であり、鹿屋航空基地に所在していた第7航空隊で除籍となったものを史料館に展示している。
OH-6D(練習機)
アメリカ合衆国の航空機メーカー、ヒューズ・ヘリコプターズ社が開発した小型ヘリコプター。アメリカ軍における愛称は「カイユース」(Cayuse:アメリカ先住民のカイユース族から」)。
機体形状から「フライングエッグ(空飛ぶ卵)」、開発計画名LOHから転じた「ローチ(ドジョウ)」の別名でも呼ばれている。
川崎重工業がOH-6Aの日本向けOH-6J及び民間向け369HSをライセンス生産し、1969年(昭和44年)〜1979年(昭和54年)まで陸上自衛隊が観測機として117機、海上自衛隊が教育用に3機を導入し、琉球政府厚生局から継承した海上保安庁でも2機を運用した。
1979年からはOH-6Dに切り替えられ、1997年(平成9年)の生産終了までに陸自に193機(J型と合わせると310機)、海自に訓練用14機と連絡用1機を納入し、民間向けにも生産した。川崎での延べ生産数は387機に上る。
SNJ-5(練習機)
T-6(テキサン)は、1930年代から1960年代にかけて使用されたノースアメリカン社製のレシプロ高等練習機。製造国アメリカの陸軍・海軍は元より、イギリスやイギリス連邦諸国で使用され、第二次世界大戦後は日本を含むさらに多くの国で使われた。アメリカ陸軍航空隊ではAT-6、アメリカ海軍ではSNJ、英連邦諸国では「ハーヴァード(Harvard)」と称された。
日本では、1955年1月から自衛隊への供与が開始され、T-6D/F/Gが航空自衛隊に167機、海軍型SNJ-5/6が海上自衛隊に48機引き渡された。
中間練習機として使用されたが、すでにジェット機の時代となっている高等練習機のT-33や実用作戦機と、それに合わせて前輪式となっている初等練習機T-34との間に尾輪式の本機の課程が挟まるのは非合理的であった。その他の基本設計自体もさすがに時代遅れとなっていたため、航空自衛隊では1960年代に後継機のT-1と交替した。
魚雷
1884年(明治17年)以来、 シュワルツコフ朱式魚雷や英国ホワイトヘッドまたは、イタリアのフューメ魚雷を購入し、これを基礎として 独自の開発を行った。
明治三八式、 明治四四式、 大正六年式、八年式、八九式、及び九〇式と制式魚雷が改まるにつれ、次第に性能も向上して行く。 推進エネルギーを携行しなければならない魚雷において圧搾空気以外のエネルギーに転換し、 性能向上することが必要になってきた。空気は、 その四分の一が酸素、四分の三が窒素で燃焼にあずかるのは酸素だけなので、 空気の代わりに酸素を用いれば性能は四倍になる。
空気には窒素が、四分の三あるがために爆発しないので安全に燃えて安全に使える構造である。 (酸素は、点火時が最も危険なので、 先ず中間に圧搾空気瓶を置き空気で点火した後、酸素に切換える方法)
川西局地戦闘機「紫電改」NIK2-J の誉エンジン
1978年(昭和53年)秋頃、宮崎県東臼杵郡門川町沖合で海底に半ば埋もれていた局地戦闘機「紫電改」の エンジンを延岡マリンクラブの人達が発見した。
これは原田実大佐率いる第343海軍航空隊所属の最新鋭機 「紫電改」 のものと判明した。
艦上攻擊機「天山」1型B6N1のプロペラ
1980年(昭和55年)2月、鹿屋市荒平性原小学校南西約5km冲、锦江湾で漁船操業中底引き網に掛かった。
艦上攻擊機「天山」 のプロペラである。
零式艦上戰開機21型(A6M2)のプロペラ及び栄12型エンジン
1992年(平成4年)3月14日午前10時頃、垂水沖約3.5kmの錦江湾で底引き網漁をしていた鹿屋市高須町の漁師、山下清さん(当時61歳)の漁網に引っ掛かり揚収された。
2階展示室
海軍航空の歴史を主に展示している。
「海軍精神」コーナー
必勝の信念、旺盛なる責任感、敢闘精神、愛国心についての展示がされている。
海軍精神
『スマートで目先が利いて几帳面 負けじ魂これぞ船乗り』
日本海軍には古くから、「シーマンシップ」の3S精神というモットーがある。
(1)スマート <Smart> 機敏
(2)ステディ <Steady> 着実
(3)サイレント <Silent> 沈黙
千変万化する会場ではすべての措置がスマートでなければならない。
しかもその行動がステディであることを要する。
この為には全員が指揮官の命令に忠実に従い、勝手な意見や弁解を慎むようにサイレントを守らなければならない。
これが船乗りの一致団結の精神ということ、海兵団当初から教え込まれてきた。
それが発展して海軍精神の標語が生まれた。
「海軍航空の発展」コーナー
海軍航空の発祥、急成長の海軍航空隊、航空技術の発展について展示されている。
蘇る日本の名機「零式艦上戦闘機五二型」〜48年の眠りから覚めた零戦〜
1992年(平成4)年2機の零戦が錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられ、ともに補う形で1機の零戦に復元された。いずれも損傷が激しく作業は困難を極めましたが、隊員の熱意と多方面からの協力により、見事復元され新史料館に展示されました。2機の零戦の発見と新史料館の建設との時期が一致したことは、まさに運命的といえる。
「海軍航空兵力の興亡」コーナー
青島作戦、上海事変、支那事変、大東亜戦争前期・中期・末期、硫黄島関連について展示されている。
「特攻作戦」コーナー
特攻隊員の遺書は撮影が禁止されている。
特攻作戦、特攻隊員名簿、海軍特攻基地グラフィック、桜花について展示されている。
91式魚雷改(航空機用)※1階中庭に展示
展示されている魚雷は、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃で使用されたものと同型のものである。
1階展示室
「海自航空部隊の発展」コーナー
防衛力整備計画について展示されている。
「国防を支える人々と航空技術」コーナー
航空の全面禁止下の航空機産業界、航空機産業の再開から今日の発展まで、国産機の開発、要因養成について展示されている。
「航空部隊に働く人々」コーナー
自衛隊の特殊性、海自航空隊員の服装、各職域で働く隊員の姿について展示されている。
「海自航空部隊の役割と能力」コーナー
平時における主任務、民生協力、平和への貢献について展示されている。
鹿屋は映画「永遠の0」のロケ地
「永遠の0」は百田尚樹による戦争小説で、漫画、映画、テレビドラマ化されるなど大ヒットした作品。小説本はオリコン本ランキングで史上初となる400万部を突破。
鹿屋航空基地は主人公の宮部久蔵が、特攻隊員として最後に出撃された場所として描かれている。
鹿屋航空基地史料館に隣接する鹿屋市観光物産総合センターには、テレビドラマ版「永遠の0」のロケで使用された零戦のコックピットが展示されている。
鹿屋航空基地史料館の概要
休館日 | 12月29日~1月3日 |
開館時間 | 午前9時から午後5時まで (見学は、9:00~10:00、11:00~12:30、13:00~14:30、15:00~16:30) |
入館料 | 無料 |
住所 | 鹿児島県鹿屋市西原3丁目11-2 |
鹿屋航空基地史料館のwebサイト | https://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/toukatu/HPzairyou/1-8siryoukann/1-8siryoukann.html ※2023年現在、事前の入館電話予約が必要。 |
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