この記事で分かること
- 鳴門市賀川豊彦記念館とは?
- 鳴門市賀川豊彦記念館へのアクセス
- 鳴門市賀川豊彦記念館の展示品
- 鳴門市賀川豊彦記念館の概要
鳴門市賀川豊彦記念館とは?
賀川豊彦の生涯と足跡を展示しています。「友愛・互助・平和」を説き、社会的弱者のために活動し、その活動は比類なく、多くの教訓を私達に与えてくれます。
賀川豊彦はキリスト教や哲学、心理学などあらゆる分野を学び、21歳のときに神戸のスラム街に移り住んで社会的弱者の救済活動に身を投じ、日本の社会運動の草分け的存在となりました。
大正から昭和にかけて活躍し、関東大震災でのボランティア活動や労働運動、農民運動などを展開し、昭和20年には「日本協同組合同盟」を結成して、生活協同組合などの組織を生み出す基礎をつくりました。
世界的な平和運動家でもあった賀川は、ガンジーやアインシュタインらとともに徴兵制廃止などを提唱しました。軍国主義が台頭し始めた昭和初期には反戦を唱え、戦後は一貫して戦争反対や核兵器廃絶運動を行い、ノーベル平和賞の候補にもなりました。
鳴門市賀川豊彦記念館へのアクセス
電車の場合
JR板東駅より徒歩20分
車の場合
藍住ICより10分、板野ICより7分
鳴門市賀川豊彦記念館の展示品
1階 第1展示室
幼くして両親を亡くした賀川は、4歳から16歳まで、父のふるさと徳島で過ごします。第1展示室では、父の生家である磯部家、父が婿入りした賀川家をはじめ、旧制徳島中学校までの賀川の生い立ちや、アメリカ人宣教師ローガンとマヤスとの出会い、また賀川とゆかりのある人々や徳島の土地などを紹介しています。
明治学院高等部神学予科を経て、神戸神学校に進学した賀川でしたが肺結核が悪化し、神戸や明石の病院に入院した後、愛知県蒲郡に小家を借り、1年間近くの療養生活を送ります。その後、神学校に復帰するも、蓄膿症の手術中に危篤状態に陥り、失意と絶望の淵をさまよいます。そのような中で、ジョン・ウェスレーや長尾巻牧師の影響を受け、賀川は不幸な人たちの救済に献身しようと神戸のスラム街へ移住しました。
1階 第2展示室
神戸のスラム街へ移住してから5年後、救済活動に限界を感じた賀川は、再勉強のためアメリカのプリンストン神学校・大学へ留学します。2年9ヵ月の留学を経て帰国した後は労働運動、普通選挙運動、農民運動と、様々な運動を展開し関東大震災ではいち早く被災地へ駆けつけました。また消費者のための生活協同組合運動に取り組み、大成させます。
第2次世界大戦後は、戦争のない世界平和を求めて世界連邦国家建設運動、核兵器廃絶、憲法擁護運動を行い、ノーベル平和賞候補に4度推薦されました。第2展示室では、賀川の生涯の軌跡と、教育活動、著作活動、生涯の伴侶であるハル夫人などを中心に紹介しています。
2階 第3展示室(図書資料室)
第3展示室では、賀川豊彦が船本牧舎の2階で阿波農民福音学校を開いていたときに使用されていた黒板や教卓、講義墨書などを展示しています。また、賀川に関係する書籍や色紙、軸、手紙を紹介し、映画『死線を越えて』などの視聴も出来ます。
鳴門市賀川豊彦記念館の概要
休館日 | 第4月曜日(祝日の場合は翌日) 12月28日~12月31日 |
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開館時間 | 午前9:30 ~午後5:00(入館は午後4:30まで) |
入館料 | 大人 200円 小中学生 100円 |
住所 | 徳島県鳴門市大麻町桧字東山田50-2 |
webサイト | https://www.kagawakan.com |
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